習い事というのは毎日毎日進歩を実感できるのでうれしい。
今日は少しでも昨日よりよい仕事をしよう、という信条の私としては、問題意識を持っていればこそ毎回発見を見いだすと考えられますので、充実感を味わえるわけですね。
今月から日本エアロビクスセンターに通うようになり、バタフライのレッスンを受け始めました。
ドルフィンキックのような動きは日常ではほとんどないので、体が意に従わないところがあります。
そこで一流選手のビデオをあれこれチェックして、自分の動きとの違いを見つけていくわけです。
自分の技術が上がるに従って、それまで気がつかなかった欠点を発見できたりしますし、あるいは自分でこうではないか?!と思っていたことを一流選手がやっていたり、レッスンに取り入れられたりしたのを発見すると、自分の感覚が正確だったり正しかったことを再認識して喜んだりしています。
それと、最近は車の運転でも、水泳の瞬間的な動きの最中でも、あたかもスローモーションを見ているように落ち着いて自分自身の動きを観察しているような感覚があり、それが自己流に陥るのを防いでいるなと思えるのですね。
プールで人の泳ぎを見ていると、とくに年配者が多いものですから、自己流のクセに凝り固まっている人を多く見かけます。レッスンでも、講師の先生が必死で矯正しようとしても駄目な人が多く、さじを投げたような表情をするのが多々見られます。
自分を冷静に対象化して見ることがほとんどできないのだろうと思います。
ことは身体のクセだけではなく、思考や感情のクセというのも問題だなと思わずにはいられません。自分の内面の動きをスローモーションのように見て、偏りを自覚し、修正を図るという「自己対象化」の能力は絶対に大切なことなのだと思います。
ただし、誤った感受性のあり方であろうが、思い込みの激しい人こそ一芸をものにする、個性的であるという評価をうけることもままあるわけで、完璧に欠点のないパフォーマンスをすることは哲学では至上のことでも、芸術ではマイナスになるのかもしれない。
知性派の人間には、知性派の芸術のありようがあることは確かだ。たとえばゲーテやミケランジェロなど、感情の吐露とは無関係な自己表出の世界。
西脇順三郎は、(年取って)インポになってからでないと、おれの詩は分からん、と申されたそうで…。
いずれにしても、『知覚の現象学』を水中に漂いながら検証していくというのも楽しいものだ。
この楽しみと、発見をことばで捉えていければ面白いのではないかな。