2009年6月6日土曜日

『書物の解体学』から「田村隆一詩集」(4)

 ひとの思考というのはほとんど瞬時といってよい超高速で展開するのに、それを記述しようとすると延々と時間がかかります。
 「書物の解体学」の方法論を探ろうとして取り上げたのですが、田村隆一の深淵にはまり込み、吉本の言葉に首根っこを押さえられて、退くことができない状態ですね。

 このブログの意図とは違う世界を引っ張り込んでしまって、別ブログを作るかとも考えています。それをやると、このブログは多分終わりになってしまうかもしれません。


 さて、「虹色の渚から」で田村と出会い、この詩が収められている「新年の手紙」以降、彼の詩が意図して言葉の軽味を求め始めたことに違和感を感じ、その詩業を遡るようにその世界をたどっていった。

 この変貌について、吉本は次のように書いている。


 「中期以降この詩人は時熟し、変貌する。一本の疾走する矢であった詩は、生からしぼり出される抽象的なしずくをとりあつめて湛える壺に変貌する。鬱然とした生の記録であり、思索であり、感覚の紀行文であり、行動から溢れてくる思想の時差であり、それらを詩という器に盛り込んだ祝祭のような言葉の森林となる

 読解する前に、吉本の評論の言葉が優れた詩のようであることに、感嘆する。
 「一本の疾走する矢」という暗喩の一言で、田村隆一という詩人の初期作品の特質を言い表している。

 ここはどういうことを言っているのかというと、「四千の日と夜」、「立棺」の田村の言葉は、贅肉を極限までそぎ落とし、抽象的な思考の表現と言いうるほどの詩形態となり、ただとらえるべき対象を射貫くために研ぎ澄まされて放たれた矢そのものだ、ということです。

 怒っているのでもない、嘆いているのでもない、嘆息しているのでもない。かれは、幻を見る人として、自らの言葉を直立させることにのみ、意を注いだと。


 それに対して、壺というのは永遠に黙して受け容れるもの、のメタファーである。
 射貫くための武器であった「疾走する矢」が、「すべてを受け容れる」壺に変化していく。

 吉本は、詩人の感性で田村の詩のキーワードをとらえて、その変遷を提示してみせる。

 「この詩人の共同体の感性を暗喩するキイ・ワードからは、「死」と「雨」とが消えて、「窓」と「鳥」だけになる。もっと細かくいえば「鳥」も消えてしまって、そのかわりに「木」があらわれる」


 木は愛そのものだ それでなかったら小鳥が飛んできて  枝にとまるはずがない
 正義そのものだ それでなかったら地下水を根から吸い上げて  空にかえすはずがない      (「木」)


 確かに、私もまた田村の詩のキーワードを捉えてはいたのだけれども、解釈の仕方が違っているようだ。何が違うのかといえば、木というものに対する連想が異なる、ということに尽きる。


 「この詩人の中から上昇し、また落下する「鳥」の動的な比喩は消えて、そこにいつまでも佇立しているようにみえて、じつは地下から吸い上げて空に上昇させている何ものかを秘めた「木」の像的な比喩があらわれる。この比喩の変貌には偶然でないものがうかがえよう。

 …として、吉本は、田村の日常の平穏な生活の中に、(戦争の「死」という)死者の時間が染みわたっていったのだ、と捉える。

 わたしにとっての木というのは、果実を実らせ、それが地に落ちて新たな芽吹きを起こさせる輪廻の象徴というイメージがつきまとう。わたしにはグミの木に登ってはグミの実を味わった少年時代から、無花果や柿をもいで食べた青年期まで、「成りもの」の木に慣れ親しんでいたということがある。

 その「成りもの」の木のイメージに、新たなイメージを付加することになったのは屋久島で生涯を終えた山尾三省の「聖老人」であった。


 『自己への旅』

 「聖老人」とは、屋久島の縄文杉をさしている。
 三省さんはこの杉の木に「老聖人」を幻視し、「聖老人」という詩を書き上げた。
 老聖人としなかったのは、この縄文杉にえもいわれぬ抱擁感と親しみを感じたからであろうか…。

 山尾三省は吉本のいう「生を削り」尽くして、地に還っていった詩人であった。
 わたしのベッドの脇には背の低い横長の書棚があり、布団に入ってから、気の赴くままに本を取り出して読むのだが、読みかけの本を置いておく木の椅子の布張り座面には、もう3年間も『自己への旅』が置かれている。

 樹齢三千年ともいわれる生命を生きている老成樹は人智をこえた英知の象徴だといってよい。
 三省さんはみえないものが見えるタイプの人であり、そういうものがなくとも、見えないものを見ようとする意志を持った人ですから、聖なる老人を見た心的体験をオブセッションと形容することはできない。

 杉や樅あるいはカラマツなど、実のならない木に対しては、とたんに私は即物的なイメージしか持ち得なくなってくる。

 ところが、吉本は田村が描いた木が表象するものは、じつは田村自身の詩的営為の姿そのものなのだ、と喝破している。

 「わたしたちはこの詩人の詩作品が、様式としてみても、現在に近づけば近づくほど万華鏡のように多彩で自在になってゆく有様をみることができる。何となく言葉に刻みつけ得る実在は、ことごとく魔法の壺の中に投げ込んで、詩的溶融を遂げる方法を手に入れてしまっている。よくここまで歩み込んできたと思う。なぜかというと、もう他人の評価をどこかで当てにして詩を書いているといった次元を離脱して、ひたすら吸い上げた言葉を空にかえすことを反復している「木」のように、営々と詩を書いているこの詩人の姿が視えるからだ」

 屋久島の縄文杉のようではないのだけれども、鎌倉の姿を消しつつある谷戸のどこかに生えている老成木でもイメージすればよいのだろうか。
 詩人田村隆一は、自らが聖老人となってその生を空に返し尽くして歩み去っていった。

 吉本は最後に、このように結んでいる。

 「詩の解体を詩人の生理的な解体と同一化した詩人たち、いいかえれば詩の言葉を生理的な肉体の内部にまで食い込ませるように行使することで、詩の言葉の蕩尽が肉体の蕩尽と同じだと言える詩人たちは、もはやこの詩人の以後には存在しなくなった。
 この記念碑的な事実に向かって、わたしたちは眼にみえないたくさんの涙を注ぐのである」

 今の年齢になれば理解できることではあるけれども、私が「虹色の渚から」に出会ったのは20歳。
 そして、ただ対象を射貫くためにだけ研ぎ澄まされた「一本の疾走する矢」に惹かれて、すれ違い遠ざかってしまった失われた年月。

 どうしても、次の言葉が出てこないのだけれども、「書物の解体学」について書いているので、さらに読み進めていくことにして、この章を終わりたい。
 
 
 

2009年6月2日火曜日

『書物の解体学』から「田村隆一詩集」(3)

      「立棺」 (「四千の日と夜」所収)

      わたしの屍体に手を触れるな
      おまえたちの手は

      「死」に触れることができない
      わたしの屍体は
      群衆のなかにまじえて
      雨にうたせよ


 同じように自分の死さえも対象化して見せた中原中也の「ほらほら これが僕の骨」(「骨」)という、デカダンスの果ての諦観とは一線を画しているものがある。

 私はその違いを単に個人的な資質の違い程度にしか気にかけてはいなかったのだが、それほど単純ではないことを知ることになる。


 「こういう命令法がなぜ可能だったのか。それはこの詩人の内部で、経験と判断の眼に視えない共同体が信じられていて、いわばその共同体の観念のところで詩が成立しうることが前提にされていたからだ。」と。

      「幻を見る人」 (「四千の日と夜」所収)

      空は
      われわれの漂流物でいっぱいだ
      一羽の小鳥でさえ
      暗黒の巣にかえってゆくためには
      われわれのにがい心を通らねばならない

 「われわれ」と言ったとき、そこに戦争の「死」の体験を共通にし、(中略)   私事を切り離してなお存在しうる共感のメンバーがあることが、思い描かれているのだといっていい。


 なるほどね。田村は一億総玉砕という戦争期に味わった死の共感という共同幻想に信をおいて、その詩的出発を遂げたということなのだと。

 むろん私も、荒れ地派の鮎川信夫や中桐雅夫、黒田三郎、北村太郎らが「われわれ」と言うとき、戦争経験者というくくりを十分に判ってはいたけれども、田村がその共感に(肯定的に)信をおき、理想の共同体として描いた、という理解はなかった。

 この共感というのは、60年代の詩人たちでいえば、あの「五月のオブセッション」ということになるであろう。

 スケールダウンになって面はゆいのだけれど、私のような70年の世代にとっては、オブセッションというものも持ち得なかった。言葉だけの「連帯」という共感に取りすがり、通過儀式として70年安保闘争を文字通り通過しただけだった、と思う。

 私が上梓した『古典力学』という詩集は、その辺の社会的・心的状況を切り取ったものといってよい。
 古典力学では、エネルギーには運動エネルギーと位置エネルギーとがある。私は両者の反比例関係が、自分の悩みをよく表していることに気づいて、この詩を書いた。

 闘争の最前線(=運動の中心)で活動していると、運動エネルギー的には極大になるけれども、位置エネルギーはゼロに近くなる。つまり、全体を俯瞰する眼を失うことになる。

 私は状況がどうなっているのかを冷静に判断したいという知的願望が叶えられず、多くの仲間たちと共に大量逮捕という自滅的な道に陥ってしまった。

 状況を俯瞰するには岡目八目といわれるように、客観視できるだけの距離(=位置エネルギー)を確保しなければならない。
 そのためには行くべきところ(逮捕・勾留)まで行って、それを通過儀式の通行手形として、以後仲間たちとの連帯という幻想を捨て去った、ということだった。


 そしてまさにそのような状況の時に、田村の「虹色の渚から」に私は出会ったのだ。


 吉本は「四千の日と夜」の詩群について、「この理想として描いた共同体をただの幻影に過ぎないと思うようになったのは、どの時期からかよく確定できない。ただいちども私的な挫折感として表現されたことはなかった。」と断じている。


 私は「虹色の渚から」を読んで、明瞭に行く者と帰る者とのすれ違いを意識していた。
 もう一度、この詩を読み直していただきたいと思う。

 (Firefox というブラウザですと、IEビューアーというアドオンを組み込むことで、簡単に比較・参照スタイルにすることができます。このような画面となり、便利です)



 (参照ページをFirefox の別タブで呼び出し、右クリックメニューから「このページをIEで見る」を選択しますと、上のような画面になります。左はインターネット・エクスプローラの画面、右は原稿を書いているFirefox ですね。)

       この渚には
       人の足跡はもう消えてしまった

 この2行は、自分がこだわり続けてきた戦争体験が、もはや誰の記憶にもとどまっていないかに見える、幻影になってしまった、ということを表象しているように思う。

       烏と犬の足跡と
       口と肛門が永遠の環になっている
       あの軟体動物の夢の分泌物が


 鳥も犬も、田村にとってはあの共同体を暗喩するキーワードだと。しかし、今あるのは足跡だけなのだ。
 この一行は、田村が現実に歩いている稲村ヶ崎から材木座海岸の水辺の表現でもあり、彼の心象表現でもありということで、呼吸をして空気をはき出すようにメタファーをはき出す彼の資質を見る思いがする。

 そして、ナマコをイメージさせる「軟体動物の夢の分泌物」とは、何事もなかったかのごとく、過去から未来に向かって永遠に続く、のっぺりとした日常性を指しているようだ。

 自分が信をおいていたものは霧散していき、なにも変わらない日常が現実的な相貌をもって立ち現れてくる、ということになる。

       ときには驟雨もあった
       夜 黒い水平線を稲妻が走ることもあった

 私の「四千の日と夜」はそのような風景に満ちていた、ということ。過去形になっているのが、一つの終わりを暗示している。

       ぼくらの時代が感覚的な時代なら
       ぼくらは耳を手でふさいで聴かねばならぬ
       ぼくらは眼をとじて見なければならぬ


 私は長い間誤読をしたままだったようだけれど、この感覚的な時代=現代、だと思い込んでいた。
 今のような時代は、耳をふさいだり、目を閉じて、いわば心眼で事の本質を観なければいけないのだ、と。そう誤解すれば、これは挫折感の吐露なのだと、誤った解釈に近づきかねない。

 けれども、「ぼくはぼくらの時代の漂流物」という言葉が続いていることからすると、幻となりつつある過去の経験世界ということになる。


 とすれば、戦争期の死という共感の世界は、日常性のそれとは別の感受の仕方で心の裡に呼び出さなければいけない、というほどの意味になろうか。

 なるほど、そう解釈することにより、次のアイロニック(反語的)な表現も、俄然具体的な意味を帯びてくる。

       病める生というものはない
       生そのものが病んでいるのだ

 生というものは過剰なほど健康であり、過剰なほど健忘症なのだ。その過剰性こそ、不健全に違いないのだ、と。


 吉本は「自己告白をやっても私事を描写しても、注意深く共同の観念に面したところで行儀よく切り取られ、読者が出会うのは、その切断面になっている。

 そうですね、と相づちを打つしかない自分のていたらくに、腹立ちを覚えるほどだ。

 (続く)