2009年5月31日日曜日

『書物の解体学』から「田村隆一詩集」(2)

 前の行に続いて、
 「少年や青少年があふれ出る若い生命感と鋭敏な神経と巧みな修辞法と、いい資質とを、半ば無意識に奔騰させて、いわば生の過失の独白といった案配で創造された詩作品という性格はもっていない。

 相変わらず、シビアなことをさらりと言っていますけれど、世上「詩と呼ばれている作品」の99%は、この2行で切り捨てられてしまうわけです。
 
 たとえば、詩人らしい詩人という印象が強い中原中也を思い起こせば、吉本のこの定義に過不足なく収まると思う。

 「その代わりに知識も教養も生活の瞬間の感想も、癖になった慣用句も、思索のあとも、すべて詩という器の中に煮込まれている。

 吉本は膂力(りょりょく)という言葉を使いますが、その人がもっている力のすべてと言い換えてよい。この二つの詩集(田村隆一詩集、続田村隆一詩集)は、その膂力を尽くしているのだ、ということです。

 「はじめはこの詩人も、じぶんを修辞の天才と思い違いして出発したすべての詩人とおなじように、生を一本の修辞の矢にして疾走するスタイルで出発した。初期の作品を読むとそれがとてもよく判る。

 私が初めて田村隆一の詩に触れて衝撃を受けたのは1969年の早稲田祭だった。
 その一ヶ月ほど前に、七〇年安保騒動の現場で私は多くの仲間たちと共に逮捕され、23日間の勾留生活から解放されて、まもないころだった。

 程なく私は私家版の第二詩集『古典力学』を上梓して、仲間たちに送呈し、以後連帯という共同幻想を解消した。

 生来の単独行者となった私は、あてもなくキャンパス〔文学部ではなく、本部キャンパス〕をうろついていて、ふと落ちていた学園祭パンフを拾い上げ、パラパラとめくっていて、この一編の詩に衝撃を受けた。

 早稲田祭の喧噪のただ中、漂流者のように虚しくさまよっている心に強烈な稲妻が走る思いであった。

 当時、田村隆一という人がどのような人なのか、私は知らなかった。
 学園祭を運営している文連の誰かが書いたものだろう、という程度の認識だったので、とても自分には及ばない才能だと絶望するほど鮮烈な詩だった。

田村隆一 「虹色の渚から」…『新年の手紙』(1973)所収

 以後、私は書かざる詩人として、持て余している過剰な感受性を鈍磨して生きていくことを決意した。はっきり言ってしまえば、オヤジ化してしまうこと、だね。

 その後、進路を変更してロシア文学から現代詩に進み、戦後詩の大御所が勢揃いする荒地派の巨匠であった田村隆一の全詩集を読みふけり、いちだんと私はこの詩に自己投影を深くした。

 以下、私的な解釈を付記してみたい。

 この渚には
 もう人の足跡は消えてしまった

 当時鎌倉に在住していた詩人は、材木座海岸から稲村ヶ崎を散歩していたであろうか。
 夏の喧噪がすぎて、秋色を濃くしていく時期。

 ここに投影されている心象風景は、海軍士官として経験した戦争体験と、戦後それを自己表現として消化していくために苦闘した『四千の日と夜』があり、そんな騒乱と喧噪などなかったかのような今日的な現実が横たわっているのである。

 この心象風景は、私がキャンパスに舞い戻ってきた時の心象風景と微妙にオーバーラップしてくる。
 学園闘争が吹き荒れた中で上梓した私の第一詩集は、ハイネの「恋と革命」の向こうをはった気恥ずかしいものだったが、嵐が過ぎれば何もなかったかのような日常性の世界だけ。

 あれはいったい何だったのか?

 六〇年安保闘争世代の優れた表現者たち、吉増剛造、天沢退二郎、清水 昶、長田弘、鈴木史郎康、渡辺武信、菅谷規矩男らは、現代詩になだれ込んで、そうそうたる『頭脳の塔』〔吉増〕を現出した。
 渡辺は、「あれ」を五月のオブセッションと書いた。菅谷がいう詩的60年代とは「五月のオブセッションという生態系」から発生してきたものだ、といってよい。

 それは「幻」ではあったが、世の中が変わるかもしれないという幸福な幻だった。

 私たちアングリー・ヤングマン(怒れる若者)の七〇年には、もはやそのようなオブセッションすらなかった。
 自分たちの怒りと意志を行動で表すしかなかったが、熱狂するに足るものはなく、個々に思想的自立をはかるしかない困難な時代だったと思う。


 田村はこう続けている。

 永遠の環となっている、夢の分泌物

 何というメタファー〔隠喩〕なのだろう。
 この分泌物とは、あとの方で書いている「僕らの時代の漂流物」を指しているかと思う。

 時には驟雨もあった
 夜、暗い水平線を稲妻が走ることもあった

 これは、『四千の日と夜』を示唆している。


 私の投獄経験はそれ自体にさほどの意味はない。
 それは日常生活とオブセッションとがメビウスの輪のごとく表裏を見せながら、永遠の環となって堂々巡りを余儀なくさせられる私自身の『四千の日と夜』の入り口を指し示すための道標なのだと。


 病める生というものはない
 生そのものが病んでいるのだ

 これが田村の命諦であった。諦とはあきらめではなく、仏陀の「四諦」というように、智の至高点での認識というくらいの意味。悟りといえばわかりやすいだろう。

 「荒地」派の年少組であった吉本隆明は「智には往相と還相とがある」と『最後の親鸞』で書いているが…

 僕らの時代が感覚的な時代ならば
 僕らは耳を手でふさいで聴かねばならぬ
 目を閉じて見なければならぬ

 この一節は、写真をやっていた頃の私の命題「見えないものを写し撮る」という自負と通底するものがある。

 ただし、田村は『四千の日と夜』(1956)を通過して、

 わたしの屍体を地に寝かすな
 わたしの屍体は
 立棺のなかにおさめて
 直立させよ

 という『立棺』の決意、そして『言葉のない世界』での、

 おれは垂直的人間
 おれは水平的人間にとどまるわけにはいかない

 という矜持の姿勢を貫き通した果ての言葉であること。

 つまり、還相の一節であって、青年前期の私が抱いていた「見えないものを写し撮る」という自負心は智の至高点に向かって這い上がっていこうとする往相にあり、私と田村隆一は『虹色の渚から』ですれ違った、ということになろうか。

 裸足の青年がひとり
 むこうから歩いてくる

 この青年とは私に他ならないという思いに突き上げられた。
 詩人と言葉を交わすことは出来るだろうが、共に歩むことは出来ない。

 彼は帰ってくる人であったし、私は向かって行く過程の者であるから。
 かつての詩人のように、私の屍体も地に寝かすなという単独行者となっていった。


 詩人なら多分「おお、やってるな」とひと言だろう。
 大江健三郎ふうに言えば、「ここにも永遠がある」と。
 私は、言葉のない世界で目礼するだけ。

 それで充分すぎるほどだ。


   「見えない木」(『言葉のない世界』1962年、所収)

 雪の上に足跡があった
 〔中略〕
 その足跡は老いたにれの木からおりて
 小径を横断し
 もみの林のなかに消えている
 瞬時のためらいも、不安も、気のきいた疑問符も そこには
 なかった

 〔中略〕

 ぼくの知っている飢餓は
 このような直線を描くことはけっしてなかった
 この足跡のような弾力的な、盲目的な、肯定的なリズムは
 ぼくの心にはなかった

 〔中略〕

 この羽跡のような肉感的な 異端的な 肯定的なリズムは
 ぼくの心にはなかった


 「ぼくの飢餓」と言わず「ぼくの知っている飢餓」と書いたところに、この詩の意味がある。
  

 私は自らの『四千の日と夜』を集大成しなければならない時を感じているのだけれども、一万の日と夜を沈黙し続けている間に、削るべき生をほとんど失っていることを知り愕然とするばかりだ。

 (続く)
 

2009年5月30日土曜日

吉本隆明「新書物の解体学」田村隆一詩集を読む

 私は一応音楽は好きな方ですけれど、日常生活で音楽を聴くということはほとんどないと言って良い。
 物書きの生活を送っていますので、音楽をかけると思考がストップしてしまうので、それを嫌う。
 また、集中してしまうと、音楽をかけていたとしても全く聞こえなくなります。

 食事の時など、TVを見ていて、それが音楽番組だったりすると、次第に感情が揺り動かされて気がついたらドップリ状態ということがしばしばあります。
 そうなると、もう仕事に戻れなくなり、繰り上げ晩酌となり、歌番に飽き足らなければYouTude などで気が済むまで聴いて夜更かしして、周囲が明るくなってあわてて寝床についたり。

 そういう人間なのに、道草ブログを書き連ねているうちに原稿用紙で1000枚もの量を重ねてしまいました。ところが、私が馴染んでいる曲というのは十指にも満たない。あとは、ざっと一回聴いたか、あるいはほとんど聴いていないに等しい曲が大多数、という有様です。

 それで、2、3回曲を聴いていきなり記事を書き出し、歌詞確認で1、2度聴き直してみる。
 きちんといろいろ調べることもなく、ほとんど直観的に中心的なテーマあるいはキーワードをつかんで、そこに光を当てるというような私流のやりかたで進めてしまいます。


 私の考えでは、データや資料を集めて、検証を重ねたところで「当たらずといえども遠からず」というレベルにしかならないな、という感じがするからですね。

 とくに心の問題にかかわる場合、的確に的を射抜くためには、物事の本質を一瞬で見抜く能力が必要なのだと思っています。

 そういう思いがありますので、資料もデータもなくても、表現されたものだけをみて、わたし的にはこう感じるよということをかきなぐってしまいますので、後で読み返して言葉足らずの部分を追記、追記。歌を聴いてみて、新たに気づいたことがあれば補筆・訂正とか、つぎはぎだらけの記事になっていく。

 ここにあるのは、自分の感覚を信じて書くだけ、という無頼派の矜恃だけですね。

 しかし、さすがにこれで良いのか?という不安を感じて、吉本の「新書物の解体学」を取り寄せて、彼の方法論をチェックしてみることにしました。

 というのは学生時代2歳年上の先輩と、評論の方法論について論争して、私が田村隆一の全著作を集めてその私生活まで知っているというレベルから田村の詩について語ったのに対して、彼は書かれたものそのものを私情を交えずに表現を分解するような方法論を良しとした。

 そして彼は「書物の解体学」はまさにそういう方法論で書かれたものではないか?と言ったのです。
 この本を私も持っていましたが、「積ん読」状態で、読んではいなかったので、何とも言えませんでした。

 この先輩は福岡の出身で、評論家としてやっていく道を断念して、田舎で古本屋のオヤジでもやるさといって、卒業後郷里に帰りましたが、私と正反対の理路整然とした話をする人格者でしたね。

 それで、インターネットの古本屋さんで、改めてこの本を購入して、田村隆一について書いた部分だけ拾い読みをしてみたのです。この30年間、このような疲れる本を読む精神的な余裕がありませんでしたので、読んでみたいという気になった先日いろいろと本をピックアップして、一括購入しました。

 私は引っ越しをするたびに、古書店さんに来て頂いて床が抜けそうなくらい増え続ける本を500冊単位で処分して、あとで必要になったらまた買うということをやっていますので、同じ本を何度も買うこともあります。

 それで、田村隆一『詩集』の評論ですね、僅か7ページの記述しかありませんが、改めて吉本の力量に圧倒されるばかりです。十数行読んでは考え込むという感じで、ほとんど私の頭は脳軟化症という精神レベルに堕しているなと痛切に実感するだけです。

 すこし引用しながら、進めていきます。

 「わが国でプロフェッショナルと呼べる詩人は、田村隆一・谷川俊太郎・吉増剛増の三人ということになる

 はっ?
 「ということになる」?

 「三人くらい」ではなく「三人」と断定しています。あの人は、この人は?という質問など無用だということです。読むに足る(中には読むに足らぬものもある)詩集はすべて目を通しているよ、という自負があるのでしょう。

 まあ、この三人は私も大好きな詩人たちですので、異論はありませんけど。

 「このプロフェッショナルというのは、詩を職業としているというのとも違うし、まさしく詩が専門だといえるほどとびぬけていい作品をうみだしているということとも、少しだけ違う。詩を書くこと、あるいは書かれた詩が確実に(生活とも生命とも違う。むしろ生涯というに近い)を削った行為になっているというほどの意味になる。ほかの詩人はいい詩人もだめな詩人も、そのいいことにおいて、まただめなことにおいてアマチュアだといっていい。

 出だしの七行を読んだだけで、わが仕事を顧みて恥ずかしくなり、先を読み進めることができなくなる。

 私は方法論を求めてこの書を買い求め、私がよく知っていると自負する田村隆一の項目を真っ先に読んだ。それが、一番わかりやすいだろうとショートカットの道を選んだ。

 ところが、吉本は田村の詩集を取り上げて、
 「ここで取り上げた二つの本の中の詩は、大人が鉛筆を削るように生を削ってやった仕事という力感を持っている

 と、指摘しているのです。 

 方法論なんかに逡巡する以前に、おまえが書いているものは生を削ってやり遂げている仕事なのか?と突きつけられてしまうわけです。

 少なくともこのページで書いていることは、そのような気持ちを込めて書いているのではあるけれども、それだけの力感が表れているかというと、それはない。
 プロフェッショナルな物書きというのは、何も書くことができなくともサラリーマン同様一定時間机に向かって書こうと、エネルギーを費やさなければいけない。

 実際のところ、ほとんどの時間は雑文を書いて垂れ流しているに等しいのだと我ながら思う。

 1999年頃から、私はインターネット上に表現活動を展開してきて、ブログを中心にインターネット・マーケティングという戦略的方法論を基本に据えて、商業的文章を書いてきたといってよい。

 そして、このブログで述べているように、伊藤雄人画伯とコラボレーションを始めるに当たって、表現感覚を取り戻すためのブログを別に作っているわけですが、そちらに時間をとられる結果となり、雑文書き殴り状態に陥っている。

 そのような、懺悔をしなければ次に読み進むことはできないと思う。たった七ページの文章なのに、この濃密さは何なのだ、と感じて、また考え込んでしまうのだった。

 明日は、続編を書けるよう、気を取り直したい。

2009年5月2日土曜日

一所懸命にならない思考原理

 ずいぶんと、間を空けてしまいました。

 他のことに熱中していまして。私の悪いクセ。

 ユージーン伊藤画伯と話をしていて、あれこれやってエネルギーを消耗させないように、というようなことを言われたのを思い出します。

 何事も大成するためにはただ一つのことに命を懸けて集中しなければいけないのでしょう。

 しかるに、物書きの私はあれこれ、あれこれいろいろなことをやって、蝶々のように花から花へ飛び回っています。

 これでいいのかと、考えることもしばしばあります。
 私の年齢であれば、腰を据えてライフワークに専念すべきなのでしょうね。


 物書きというのは、自分の思考を記述する営為に他ならないわけですが、その思考というのは連想の連続そのものである、と。

 自由な思考をするということは、連想にメンタルブロックを置かずノーリミットにする、ということです。

 その連想するものが広かったり、深かったりすれば、そこにミクロコスモスが形成されるのは不可避なことですね。

 これを樹木に例えますと、若木のうちは枝葉が少ないので、幹がハッキリと伸びていきます。けれども、老成木ともなると、枝も太く葉も茂り、どれが幹でどれが枝なのか区別が付かないほどになる。


 ただし樹木は数千年も生きるし、年齢と共に根幹が太くなっていきますが、人間の営為というのは果実しか顕在化せず、根幹というものは背後に隠されているという違いがありますね。


 思考というのは他者には見えないものですし、超高速で展開していますので記述できることは限られています。そして、活動時間も、活動期間も限りがある。

 そういうことを考慮すれば、そろそろ自分の人生の終わりに成し遂げておかねばならないことを見据えて、現在の私がやるべきことに一所懸命にならねばいけないかな、と痛感します。

 思考はノーリミットでかまわないけれども、書くものは厳選していかねばならないでしょうね。