「少年や青少年があふれ出る若い生命感と鋭敏な神経と巧みな修辞法と、いい資質とを、半ば無意識に奔騰させて、いわば生の過失の独白といった案配で創造された詩作品という性格はもっていない。」
相変わらず、シビアなことをさらりと言っていますけれど、世上「詩と呼ばれている作品」の99%は、この2行で切り捨てられてしまうわけです。
たとえば、詩人らしい詩人という印象が強い中原中也を思い起こせば、吉本のこの定義に過不足なく収まると思う。
「その代わりに知識も教養も生活の瞬間の感想も、癖になった慣用句も、思索のあとも、すべて詩という器の中に煮込まれている。」
吉本は膂力(りょりょく)という言葉を使いますが、その人がもっている力のすべてと言い換えてよい。この二つの詩集(田村隆一詩集、続田村隆一詩集)は、その膂力を尽くしているのだ、ということです。
「はじめはこの詩人も、じぶんを修辞の天才と思い違いして出発したすべての詩人とおなじように、生を一本の修辞の矢にして疾走するスタイルで出発した。初期の作品を読むとそれがとてもよく判る。」
私が初めて田村隆一の詩に触れて衝撃を受けたのは1969年の早稲田祭だった。
その一ヶ月ほど前に、七〇年安保騒動の現場で私は多くの仲間たちと共に逮捕され、23日間の勾留生活から解放されて、まもないころだった。
程なく私は私家版の第二詩集『古典力学』を上梓して、仲間たちに送呈し、以後連帯という共同幻想を解消した。
生来の単独行者となった私は、あてもなくキャンパス〔文学部ではなく、本部キャンパス〕をうろついていて、ふと落ちていた学園祭パンフを拾い上げ、パラパラとめくっていて、この一編の詩に衝撃を受けた。
早稲田祭の喧噪のただ中、漂流者のように虚しくさまよっている心に強烈な稲妻が走る思いであった。
当時、田村隆一という人がどのような人なのか、私は知らなかった。
学園祭を運営している文連の誰かが書いたものだろう、という程度の認識だったので、とても自分には及ばない才能だと絶望するほど鮮烈な詩だった。
田村隆一 「虹色の渚から」…『新年の手紙』(1973)所収
以後、私は書かざる詩人として、持て余している過剰な感受性を鈍磨して生きていくことを決意した。はっきり言ってしまえば、オヤジ化してしまうこと、だね。
その後、進路を変更してロシア文学から現代詩に進み、戦後詩の大御所が勢揃いする荒地派の巨匠であった田村隆一の全詩集を読みふけり、いちだんと私はこの詩に自己投影を深くした。
以下、私的な解釈を付記してみたい。
この渚には
もう人の足跡は消えてしまった
当時鎌倉に在住していた詩人は、材木座海岸から稲村ヶ崎を散歩していたであろうか。
夏の喧噪がすぎて、秋色を濃くしていく時期。
ここに投影されている心象風景は、海軍士官として経験した戦争体験と、戦後それを自己表現として消化していくために苦闘した『四千の日と夜』があり、そんな騒乱と喧噪などなかったかのような今日的な現実が横たわっているのである。
この心象風景は、私がキャンパスに舞い戻ってきた時の心象風景と微妙にオーバーラップしてくる。
学園闘争が吹き荒れた中で上梓した私の第一詩集は、ハイネの「恋と革命」の向こうをはった気恥ずかしいものだったが、嵐が過ぎれば何もなかったかのような日常性の世界だけ。
あれはいったい何だったのか?
六〇年安保闘争世代の優れた表現者たち、吉増剛造、天沢退二郎、清水 昶、長田弘、鈴木史郎康、渡辺武信、菅谷規矩男らは、現代詩になだれ込んで、そうそうたる『頭脳の塔』〔吉増〕を現出した。
渡辺は、「あれ」を五月のオブセッションと書いた。菅谷がいう詩的60年代とは「五月のオブセッションという生態系」から発生してきたものだ、といってよい。
それは「幻」ではあったが、世の中が変わるかもしれないという幸福な幻だった。
私たちアングリー・ヤングマン(怒れる若者)の七〇年には、もはやそのようなオブセッションすらなかった。
自分たちの怒りと意志を行動で表すしかなかったが、熱狂するに足るものはなく、個々に思想的自立をはかるしかない困難な時代だったと思う。
田村はこう続けている。
永遠の環となっている、夢の分泌物
何というメタファー〔隠喩〕なのだろう。
この分泌物とは、あとの方で書いている「僕らの時代の漂流物」を指しているかと思う。
時には驟雨もあった
夜、暗い水平線を稲妻が走ることもあった
これは、『四千の日と夜』を示唆している。
私の投獄経験はそれ自体にさほどの意味はない。
それは日常生活とオブセッションとがメビウスの輪のごとく表裏を見せながら、永遠の環となって堂々巡りを余儀なくさせられる私自身の『四千の日と夜』の入り口を指し示すための道標なのだと。
病める生というものはない
生そのものが病んでいるのだ
これが田村の命諦であった。諦とはあきらめではなく、仏陀の「四諦」というように、智の至高点での認識というくらいの意味。悟りといえばわかりやすいだろう。
「荒地」派の年少組であった吉本隆明は「智には往相と還相とがある」と『最後の親鸞』で書いているが…
僕らの時代が感覚的な時代ならば
僕らは耳を手でふさいで聴かねばならぬ
目を閉じて見なければならぬ
この一節は、写真をやっていた頃の私の命題「見えないものを写し撮る」という自負と通底するものがある。
ただし、田村は『四千の日と夜』(1956)を通過して、
わたしの屍体を地に寝かすな
わたしの屍体は
立棺のなかにおさめて
直立させよ
という『立棺』の決意、そして『言葉のない世界』での、
おれは垂直的人間
おれは水平的人間にとどまるわけにはいかない
という矜持の姿勢を貫き通した果ての言葉であること。
つまり、還相の一節であって、青年前期の私が抱いていた「見えないものを写し撮る」という自負心は智の至高点に向かって這い上がっていこうとする往相にあり、私と田村隆一は『虹色の渚から』ですれ違った、ということになろうか。
裸足の青年がひとり
むこうから歩いてくる
この青年とは私に他ならないという思いに突き上げられた。
詩人と言葉を交わすことは出来るだろうが、共に歩むことは出来ない。
彼は帰ってくる人であったし、私は向かって行く過程の者であるから。
かつての詩人のように、私の屍体も地に寝かすなという単独行者となっていった。
詩人なら多分「おお、やってるな」とひと言だろう。
大江健三郎ふうに言えば、「ここにも永遠がある」と。
私は、言葉のない世界で目礼するだけ。
それで充分すぎるほどだ。
「見えない木」(『言葉のない世界』1962年、所収)
雪の上に足跡があった
〔中略〕
その足跡は老いたにれの木からおりて
小径を横断し
もみの林のなかに消えている
瞬時のためらいも、不安も、気のきいた疑問符も そこには
なかった
〔中略〕
ぼくの知っている飢餓は
このような直線を描くことはけっしてなかった
この足跡のような弾力的な、盲目的な、肯定的なリズムは
ぼくの心にはなかった
〔中略〕
この羽跡のような肉感的な 異端的な 肯定的なリズムは
ぼくの心にはなかった
「ぼくの飢餓」と言わず「ぼくの知っている飢餓」と書いたところに、この詩の意味がある。
私は自らの『四千の日と夜』を集大成しなければならない時を感じているのだけれども、一万の日と夜を沈黙し続けている間に、削るべき生をほとんど失っていることを知り愕然とするばかりだ。
(続く)