2009年5月30日土曜日

吉本隆明「新書物の解体学」田村隆一詩集を読む

 私は一応音楽は好きな方ですけれど、日常生活で音楽を聴くということはほとんどないと言って良い。
 物書きの生活を送っていますので、音楽をかけると思考がストップしてしまうので、それを嫌う。
 また、集中してしまうと、音楽をかけていたとしても全く聞こえなくなります。

 食事の時など、TVを見ていて、それが音楽番組だったりすると、次第に感情が揺り動かされて気がついたらドップリ状態ということがしばしばあります。
 そうなると、もう仕事に戻れなくなり、繰り上げ晩酌となり、歌番に飽き足らなければYouTude などで気が済むまで聴いて夜更かしして、周囲が明るくなってあわてて寝床についたり。

 そういう人間なのに、道草ブログを書き連ねているうちに原稿用紙で1000枚もの量を重ねてしまいました。ところが、私が馴染んでいる曲というのは十指にも満たない。あとは、ざっと一回聴いたか、あるいはほとんど聴いていないに等しい曲が大多数、という有様です。

 それで、2、3回曲を聴いていきなり記事を書き出し、歌詞確認で1、2度聴き直してみる。
 きちんといろいろ調べることもなく、ほとんど直観的に中心的なテーマあるいはキーワードをつかんで、そこに光を当てるというような私流のやりかたで進めてしまいます。


 私の考えでは、データや資料を集めて、検証を重ねたところで「当たらずといえども遠からず」というレベルにしかならないな、という感じがするからですね。

 とくに心の問題にかかわる場合、的確に的を射抜くためには、物事の本質を一瞬で見抜く能力が必要なのだと思っています。

 そういう思いがありますので、資料もデータもなくても、表現されたものだけをみて、わたし的にはこう感じるよということをかきなぐってしまいますので、後で読み返して言葉足らずの部分を追記、追記。歌を聴いてみて、新たに気づいたことがあれば補筆・訂正とか、つぎはぎだらけの記事になっていく。

 ここにあるのは、自分の感覚を信じて書くだけ、という無頼派の矜恃だけですね。

 しかし、さすがにこれで良いのか?という不安を感じて、吉本の「新書物の解体学」を取り寄せて、彼の方法論をチェックしてみることにしました。

 というのは学生時代2歳年上の先輩と、評論の方法論について論争して、私が田村隆一の全著作を集めてその私生活まで知っているというレベルから田村の詩について語ったのに対して、彼は書かれたものそのものを私情を交えずに表現を分解するような方法論を良しとした。

 そして彼は「書物の解体学」はまさにそういう方法論で書かれたものではないか?と言ったのです。
 この本を私も持っていましたが、「積ん読」状態で、読んではいなかったので、何とも言えませんでした。

 この先輩は福岡の出身で、評論家としてやっていく道を断念して、田舎で古本屋のオヤジでもやるさといって、卒業後郷里に帰りましたが、私と正反対の理路整然とした話をする人格者でしたね。

 それで、インターネットの古本屋さんで、改めてこの本を購入して、田村隆一について書いた部分だけ拾い読みをしてみたのです。この30年間、このような疲れる本を読む精神的な余裕がありませんでしたので、読んでみたいという気になった先日いろいろと本をピックアップして、一括購入しました。

 私は引っ越しをするたびに、古書店さんに来て頂いて床が抜けそうなくらい増え続ける本を500冊単位で処分して、あとで必要になったらまた買うということをやっていますので、同じ本を何度も買うこともあります。

 それで、田村隆一『詩集』の評論ですね、僅か7ページの記述しかありませんが、改めて吉本の力量に圧倒されるばかりです。十数行読んでは考え込むという感じで、ほとんど私の頭は脳軟化症という精神レベルに堕しているなと痛切に実感するだけです。

 すこし引用しながら、進めていきます。

 「わが国でプロフェッショナルと呼べる詩人は、田村隆一・谷川俊太郎・吉増剛増の三人ということになる

 はっ?
 「ということになる」?

 「三人くらい」ではなく「三人」と断定しています。あの人は、この人は?という質問など無用だということです。読むに足る(中には読むに足らぬものもある)詩集はすべて目を通しているよ、という自負があるのでしょう。

 まあ、この三人は私も大好きな詩人たちですので、異論はありませんけど。

 「このプロフェッショナルというのは、詩を職業としているというのとも違うし、まさしく詩が専門だといえるほどとびぬけていい作品をうみだしているということとも、少しだけ違う。詩を書くこと、あるいは書かれた詩が確実に(生活とも生命とも違う。むしろ生涯というに近い)を削った行為になっているというほどの意味になる。ほかの詩人はいい詩人もだめな詩人も、そのいいことにおいて、まただめなことにおいてアマチュアだといっていい。

 出だしの七行を読んだだけで、わが仕事を顧みて恥ずかしくなり、先を読み進めることができなくなる。

 私は方法論を求めてこの書を買い求め、私がよく知っていると自負する田村隆一の項目を真っ先に読んだ。それが、一番わかりやすいだろうとショートカットの道を選んだ。

 ところが、吉本は田村の詩集を取り上げて、
 「ここで取り上げた二つの本の中の詩は、大人が鉛筆を削るように生を削ってやった仕事という力感を持っている

 と、指摘しているのです。 

 方法論なんかに逡巡する以前に、おまえが書いているものは生を削ってやり遂げている仕事なのか?と突きつけられてしまうわけです。

 少なくともこのページで書いていることは、そのような気持ちを込めて書いているのではあるけれども、それだけの力感が表れているかというと、それはない。
 プロフェッショナルな物書きというのは、何も書くことができなくともサラリーマン同様一定時間机に向かって書こうと、エネルギーを費やさなければいけない。

 実際のところ、ほとんどの時間は雑文を書いて垂れ流しているに等しいのだと我ながら思う。

 1999年頃から、私はインターネット上に表現活動を展開してきて、ブログを中心にインターネット・マーケティングという戦略的方法論を基本に据えて、商業的文章を書いてきたといってよい。

 そして、このブログで述べているように、伊藤雄人画伯とコラボレーションを始めるに当たって、表現感覚を取り戻すためのブログを別に作っているわけですが、そちらに時間をとられる結果となり、雑文書き殴り状態に陥っている。

 そのような、懺悔をしなければ次に読み進むことはできないと思う。たった七ページの文章なのに、この濃密さは何なのだ、と感じて、また考え込んでしまうのだった。

 明日は、続編を書けるよう、気を取り直したい。

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